日本キリスト教連合会(山北宣久委員長)は、キリスト教について「排他的だ」などと語った民主党の小沢一郎幹事長に11日付で抗議文を送り、発言撤回を求めた。発言を「一面的理解に基づく『排他的』で『独善的』な発言で、見識を疑わざるを得ない」と批判している。小沢氏は10日、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山「金剛峯寺」を訪れた際、仏教を「度量が大きい」と評価する一方で、キリスト教を「排他的で独善的」と批評した。(15日毎日新聞)
仏教関係者に対するリップサービスで,小沢幹事長も口が滑ったんだろう。
こんなことで,いちいち「抗議文」なんて送っているキリスト教関係のお偉方は,度量が狭いと思う。
それが誤解だというのであれば,キリスト教は度量が広いことを,キリスト教の団体が大同団結して,伝道すればいいことだ。
そして,小澤幹事長に抗議文を送るのではなく,「小沢氏にキリスト教の素晴らしさを理解してもらえるよう,伝道活動に全力を注ぐ。」なんて言葉が欲しい。
それと,どうして,そういうことを言われるのか,謙虚に考える姿勢がほしい。
敬虔なキリスト教徒と一緒に過ごしていていると,「そのやり方は全部間違っている」式の負の評価が多いのに,幻滅することがある。
特に,日本人の多くが持つ祖先を敬うという考え方に対して,相当ネガティブな意見を持っているのが,どうしても私には理解できない。
そういう,「これまでのやり方は全部間違い。正しくはこうあるべき」式の考え方が「独善的」との批判を受けるんだろう。
自分が心から信じる宗教をけなされたわけだから,頭にくるのは分かるが,それを乗り越えるのが,宗教家なのではないか?
「イエス様を十字架に架けたのはけしからん。抗議文を送る。」
「右の頬を打たれたので左の頬を出したらそっちも打たれた。抗議文を送る。」
なんてやっていたら,宗教じゃなかろう。
特に日本ではキリスト教はマイナー宗教なんだから,もう少し宗教家としての青臭いところが必要なんじゃないのかな。